高杉晋作の挙兵
広く知られていることだが晋作が藩論を統一して武備恭順そして討幕へと導いた。その
記念すべき日にちは元治元年(1864年)12月15日であった。今からおよそ15
0年ぐらい前のことである。(幕末の長州藩)
その行動にでた地点はどこかというのが問題である。世に言う功山寺決起のことだが。
はたしてそれは正しいのだろうか。高杉らが功山寺に当時滞在していた5卿に面会した
のは確からしい。しかしその寺は長府藩領内にあり高杉らはなんら武力行動をしていな
い。功山寺は決起のための集合場所ではなかったのではと思う。晋作に与した石川小五
郎率いる遊撃隊は150人ほどの陣容であったが戦を恐れた隊員はかなりの脱走兵がで
た。伊藤博文率いる力士隊は数十人であったという。遊撃隊は出身が長州以外の脱藩者
などからなる外人部隊であったと言う。高杉は決起する前日まで同志を増やそうとした
のではないか。高杉は馬にのっていたというがはたしてあの石段を馬で乗り降りできた
のだろうか。また森重某は小さな大砲をひいていたらしいが。その大砲もはたして石階
段を上り下りできたのであろうか。ともかく最終的に総勢80名ほどで下関の新地会所
を襲撃した。毛利本藩の飛び地の下関を押さえたのは正解であった。この議論は東行記
念館の一坂太郎氏が季刊誌東行庵だよりで提起されたものである。私も下関決起で良い
と思うが、どちらでもかまわないとも感じる。しかしもし下関以外の所を急襲するとす
ればどこの地点が考えられるだろう。長府の藩へともに決起を促すぐらいでしょうか。
藩の軍港三田尻をおさえることも考えられるが、それはすこしあとまわしにされている。
晋作は決起の前日奇兵隊の屯所を訪れつぎの言葉をさんざん歌ったという。すなわち「ま
ことがあれば今月今宵あけて正月だれもくる」奇兵隊は晋作が鬼のようになって諸隊幹
部に決起を呼びかけたがみな前途を危ぶみ動こうとしなかった。それがよほどくやしか
ったのだろう。先にも述べたが諸隊の中で石川小五郎率いる遊撃隊と伊藤博文の力士隊
のみが高杉についた。伊藤博文は後の日本で重きをなした。言うまでも無いが。石川小
五郎は維新後に爵位をもらい枢密顧問官などをつとめたという。話は戻るが功山寺には
都落ちをした公家が当時滞在しており晋作としては大儀名分をたてるため挨拶が必要で
あったと思われる。
「もはや口舌の間にては成敗の論無用なれば、これより長州男児の腕前をおめにかける。」
山口の古老たちの語り草となっていることばである。この言葉のみからすれば挙兵は功
山寺となる。しかし攻撃の始まりを決起とするならば下関決起なのだろう。当時下関に
伊藤博文と力士隊が藩命により駐在しておりその他の守備隊がいなかったことが幸運で
あった。新地会所には役人も少なく双方死傷者も出さずに高杉らは下関を占領しまた藩
の軍艦を手にいれた。高杉らは町に高札をかかげこの度の挙兵は君側の肝を撃つもので
あり、決して反乱ではないことを内外にしらせしめた。また長州南部の村役人らを味方
につけ軍資金をもらったりしている。高杉らの挙兵成功により緒隊は北へと進撃し政府
軍を太田絵堂で破った。高杉らの軍と山県らの軍が会合するのは下関挙兵から3週間位
後だったという。なぜ萩へ進撃できなかったのかはすこし不明だが下関対岸の小倉藩の
動向が不明であり様子をみきわねばならなかったというのが本当だろう。
当時幕府は長州征伐を行っていたが長州藩政府は俗論党が台頭し正義派の首を切ること
で処分を西郷らに任せていた。西郷は長州藩内部のことは長州藩に任せばよいとして長
州征伐を引き上げた。これが幸いした。もし当時藩が幕府軍と戦っていればおそらく勝
てなかっただろう。芝居でいえば俗論党は一つの舞台を務めたのである。ただあまりに
も過激であった。緒隊がなぜ次の舞台に踊りだしたのか。俗論党の意見が長州の潜在し
た風土におそらく合わなかったからだろう。しかし奇兵隊やその他の諸隊を合わせて二
千人と言われているのに、また新式装備を有していながら楽勝でなく辛勝であったのは
何故だろうか。政府軍も兵隊は二千人位であったと聞くが。
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